永井荷風の高等遊民暮らしを支えたのは父親の遺産だった――よく知られた話です。
彼は遺産を銀行預金だけでなく、株式でも運用していました。
その取引先が、1911 (明治44) 年創業の山二証券。
この社屋は戦前の1936 (昭和11) 年に建てられ、堂々の現役です。
荷風は、山二証券に送った1927 (昭和2) 年10月6日付の手紙で、
『 鐘淵紡績株100株程買い入れたく存知そうろう 』
と、“買い”を指示しています。
この年は、金融恐慌が発生、銀行の倒産が相次ぎ、荷風も被害に遭ってます。
鐘淵紡績――つい1カ月ほど前に解散したカネボウの前身で、戦前は売上高が日本一になったこともあります。
今ならトヨタに投資するようなものでしょうか。 先生、リスクヘッジしましたね。
ところが、その7年後には、どこで情報をつかんできたのか、平価切り下げに備えるため、として、こんな行動に出たのです。
『 兜町なる片岡商店 (当時の山二証券) に至り、定期預金の全額を株券に換えるべきことを委託す 』
=『 断腸亭日乗亭 』 1934 (昭和9) 年2月3日付
無謀です。
ポートフォリオなんてクソ食らえです。
荷風と山二証券の取引は戦後も続きました。
千葉県市川市に疎開していた時に、売り家を見つけたため購入しようと、同社に株券の換金を指示しています。 その家が結局、ついの住みかとなりました。
荷風にとって山二は、取引先という関係を越えて、大事な資産管理会社だったと言えます。
スナップ、スナップ写真 街頭写真